スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

須磨の歴史(5) 近現代

大政奉還の翌年の1868年(明治元年)2月、須磨区の天領の村々は兵庫県裁判所の支配を受けることになり、ついで同年5月にそれは兵庫県と改められた。

ちなみに廃藩置県が始まった当初(1971年)の兵庫県の範囲は現在とは比べ物にならないほど小さかった(八部、菟原、武庫、川辺、有馬の摂津五郡)。それが現在の範囲にまで広がったのは1876年(明治9年)。飾磨県(しかまけん・播磨)、豊岡県(但馬・丹波)、名東県(みょうどうけん)の一部(淡路)を編入してからである(※廃藩置県が行われた当初は兵庫県、尼崎県、三田県、姫路県、明石県、小野県、三草(みくさ)県、龍野県、林田県、赤穂県、安志(あんし)県、山崎県、三日月県と藩がそのまま移行した形で細かく分かれていた。)。この時まで淡路一円は徳島の一部だった。

1872年(明治5年)8月、摂津五郡19区に整理され、須磨はその中の八部郡第3区となった。(但し同区の中には、西須磨村、東須磨村、大手村、板宿村、西代村、池田村、野田村、駒ヶ林村、西尻池村、吉田新田、御崎村、長田村、多井畑村を包括していたが、口妙法寺村、奥妙法寺村、車村、白川村の4村は八部郡第2区に含まれていた。)

このころまで山間の村々は、長坂越えや古道越えの山道によって、須磨の海辺の村々よりもむしろ兵庫方面の諸村との結びつきが深かった。しかし1978年(明治11年)に板宿から妙法寺川沿いに三木まで至る道路(1890年に完成した、現在の兵庫県道22号神戸三木線)の工事が始まると、妙法寺谷筋の諸村と海岸地方の村々の結びつきも次第に強まっていった。

1886年(明治19年)6月、須磨の名称が八部郡板宿村外九ヶ村戸長役場という名称に変わる(板宿村、大手村、西代村、池田村、妙法寺村、車村、白川村、東須磨村、西須磨村、多井畑村の十ヶ村を統一)。

1889年(明治22年)町村制が施行され八部郡須磨村に改称。松田彦右衛門(大手)が初代村長となる。この頃から須磨は、今の地域を指す言葉として一般的に使われるようになった。

1896年(明治29年)4月には郡の配置分合がなされた。八部郡、菟原郡、武庫郡の3つが合併し兵庫県武庫郡となる(同時に池田村が神戸市に編入、この時の武庫郡は現在の芦屋市、東灘区、灘区、長田区の西代地区、須磨区、北区の山田地区に範囲が広がった)。

この頃、隣の神戸市が飛躍的な発展を遂げた影響で須磨村にも人口増加の波が押し寄せ、交通の発達がそれに拍車をかけた。1888年(明治21年)には私鉄山陽鉄道(現在のJR西日本)須磨駅を、1900年(明治33年)には鷹取工場を設置、1906年(明治39年)に山陽鉄道が国有に移管された際には鷹取駅も設けられた

こうして須磨の平野の農村地帯に住宅や工場が建ち始めた。また、1910年(明治43年)には兵庫電気鉄道(のち宇治川電気鉄道部、現在の山陽電鉄)が開通すると同時に兵庫と須磨は直結され、区内に板宿・大手・須磨東口・月見山・須磨寺前・須磨・一の谷などの駅が設けられた。1912年(明治45年)に武庫郡須磨村は町制をしき須磨町となった。

大正時代に入ると、神戸市の西の住宅地域の色彩が強まったことで神戸市との合併問題が活発になった。そして激しい論議の末、1920年(大正9年)についに須磨町は神戸に合併された。

須磨区発足当初は、旧西代村の地も含まれていた。また1941年(昭和16年)には明石郡垂水町(現在の垂水区)が神戸市に合併され、須磨区に編入されたため、この時期が須磨区にとって最も広い時代であった。

その後1945年(昭和20年)の大幅な区域変更により、長田区との区域が一部改められるとともに、1946年(昭和21年)11月に垂水区が新設され、ほぼ現在の区域が確定した。

戦時中はB29の爆撃を受け、須磨一帯は焦土と化した。被害者は約23万人、死者はおよそ2,600人に達したと言われている。

その後、戦後復興の進展によって平野部は大きくその姿を変えていった。特に山間の4つの村の地域は昭和40年代の高度経済成長による宅地開発で、名谷、白川台、北須磨、高倉台、横尾などの大型団地が建設され、人口が急増した。

順調な発展が進む中で、1995年(平成7年)阪神・淡路大震災が起こり、須磨区にも莫大な被害を与えた。特に六甲山地の南、旧市街地に属する地域では、須磨駅から北東に板宿方面にかけて多くの区民の生命が奪われるとともに、市民生活や都市基盤に大きな被害を受けた。また、鷹取駅南東部を中心とする地域は火災による被害を被った。その後、区民は生活再建を進めつつある。

須磨の歴史(4) 近世

やがて天下を統一した豊臣秀吉(1536/1537〜1598)は、検地や刀狩を行い、近世封建社会の基礎を固めていった。

1591年に行われた検地では
多井畑村、池田村・・・備中の蒔田権介の所領
西代村・・・・・・・・杉原伯耆(ほうき)の所領
西須磨村、東須磨村、板宿村、大手村、妙法寺村、車村、白川村・・・・・・・・・・豊臣秀吉の直轄地村上孫左衛門の預かり地)

となっていたようだ。

1615年、大阪の陣で豊臣氏が滅亡すると、須磨はほとんどが徳川家に属したが、多井畑村だけは蒔田家領であった。

1618年、戸田氏鉄(うじかね・1576〜1655)尼崎城主となったと同時に板宿村・大手村・東須磨村、西須磨村尼崎藩領とされた。

1635年、青山幸成(1586〜1643)が尼崎に入り、以後4代は青山氏の支配を受けた。

1702年、西代村天領となり、多井畑・池田村蒔田氏が伝領、その他の村青山氏の所領となる。

1711年、青山氏にかわって松平氏尼崎藩主となった。この時、幕府は西摂の尼崎藩領の多くを収公して天領とした。(多井畑を除く須磨地域もこのとき天領となった。

幕末の記録では、多井畑村が備中浅尾藩の蒔田家領であるほかは全村天領として大坂谷町代官の支配下に置かれている。


ここまで調べての率直な疑問。江戸時代中期には須磨区のほとんどが天領となったのに、多井畑だけは戦国末期からずっと蒔田家領であり続けたのは何故なんでしょう?どなたかご存知の方いたら教えてください。

須磨の歴史(3) 中世

いよいよ須磨が歴史の表舞台に登場してきます。

十二世紀後半、絶大な権力を握っていた平清盛(1118〜1181)は1180年6月に福原(現兵庫区辺り)遷都を敢行するが、反平氏勢力の挙兵などで11月にやむなく都を返した。翌年清盛が死に、源義仲(1154〜1184)が京都に進撃すると平家は西国へ都落ちした。
 しかしその後都入りした義仲が貴族社会と対立し孤立を深めると、後白河法皇(1127〜1192)が鎌倉の源頼朝(1147〜1199)に義仲追討を命じた。そこで頼朝は源義経(1159〜1189)と源範頼(1153?〜1193)を義仲討伐のため京に上らせた。一方平家方は、再び都を奪おうと西国を発し、兵庫に上陸して大手の砦を生田の森(現中央区)に、搦手(からめて)の砦を一の谷(現須磨区)に設け、神戸を拠点と定めた。
 そして京で義仲の討伐を果たした義経たちはその余勢をかって平家軍に押し寄せる。範頼は京から山陽道を通って直接生田へ、義経は丹波を迂回して加古川筋を下り、播磨灘の海沿いに西から一の谷をつくことになった。
 こうしてついに1184年2月7日、平家方10万人、源氏方6万人と言われる大合戦の火ぶたが切って落とされた。これがかの有名な一の谷の合戦である。この戦いで平家は敗れ去り、源氏の時代へと移行していくことになる。
 鎌倉時代に入ると区域の開発が進み、『平家物語』板屋ど須磨が、また1222年の長田神社文書田井畑・板井戸・須馬が、1315年の白川村文書白河・車造など、区内の旧村名が記録に見え始める。また、鎌倉時代から戦国時代にかけて自治組織としての「須磨村」が存在していたと思われる文書も残っているらしい。
南北朝時代には北朝の佐々木氏足利時代の初期には赤松氏室町時代には細川氏と、所領はめまぐるしく変わっていった。その間にも須磨はしばしば戦乱に巻き込まれ、1578年には花熊城を攻める織田信長(1534〜1582)の軍勢によって火をかけられたと須磨寺の古記録などに伝えられている。

須磨の歴史(2) 古代

各地の豪族を従えて生まれた大和政権大化の改新律令の制定などを経て強力な中央集権国家を築いていった。

律令制のもとで、この地域は摂津国雄伴(おとも)郡になり、それが平安初期には八部(やたべ)郡に改称された。郡内には、生田、神戸、宇治、八部、長田の五郷があり、当時の須磨は長田郷の一部だったとされる。

この八部郡は現在の中央区の西部(旧生田区域)、兵庫区長田区の各全域、須磨区のほぼ全域、北区の一部(鈴蘭台周辺)にあたる。
ちなみに神戸を中心とした他の地域を調べてみると・・・
摂津国菟原(うばら)郡・・・現在の芦屋市東灘区灘区中央区東部
摂津国有馬郡・・・現在の三田市全域・西宮市北部(山口町・塩瀬町)・神戸市北区の東部(有馬・有野・道場・八多・大沢の各町)
播磨国明石郡・・・現在の明石市神戸市西区垂水区神戸市須磨区の一部
播磨国美嚢郡(みのうぐん)・・・現在の三木市神戸市北区淡河町

須磨の地名が有名になったのは、天武天皇(631?〜86)の時代に置かれたと言われる「須磨の関」からである。当時は須磨海岸が大変狭く潮が満ちると人馬が通れない場所だったため、都へ出入りする人々の動きや物資の流れを把握しやすく、そういった地理的条件を背景に交通・軍事上の要衝として関所が設置されたと見られる。
大同年間(806〜10)には駅家(うまや)も置かれていた。その場所は今の天神町5丁目あたりだと言われている。

当初須磨は製塩産地として都で広く知られていたようだ。『万葉集』に山部赤人が敏馬浦(みぬめのうら・現在の神戸市灘区を流れる都賀川が海に注ぐあたりの地域)を通った際に詠んだ歌や大網公人主という人物が宴席で詠んだ『須磨の海人の塩焼き』という歌も残っている。

その後平安時代に入ると、須磨は貴族の隠棲の地となった。在原業平の兄、行平(818〜93)など多くの歌人に取り上げられているが、ほとんどがわびしさを詠んだ歌だと言われている。

須磨の歴史(1) 原始時代

さてここからは須磨区の歴史をざっと振り返ってみましょう。

平成9年須磨区役所から発行されている『須磨の歴史散歩』によると、名谷の団地近くで旧石器が、須磨浦公園西部で縄文時代石鏃(せきぞく)が見つかっており、古くから人類が生活していたことがわかっている。

弥生時代には妙法寺川流域を中心に稲作が始められ、集落が拡大するとともに各地に豪族が出現し、3世紀以降には古墳を築きはじめた。その時代の前期の古墳として板宿の北に古墳として飛松中学西方に大手古墳群がある。ちなみに得能山古墳を含めた須磨の数多くの古墳は、宅地造成のために現在は消失してしまっている。ただ、存在していた古墳の数の多さから見ても、この地域が地理的条件に恵まれ、当時の文化圏内にあったことが推測されている。

プロフィール

  • 須貝静顔写真
  • 須貝静
  • NPO法人しゃらく しゃらく旅倶楽部担当
  • 須磨をこよなく愛するよそ者が、真の須磨人(すまびと)を目指して日々綴っていく須磨のウンチク。須磨好きの方必見です。
  • プロフィールをもっと詳しく

新着日記

カレンダー

<< August 2017 >>
SunMonTueWedThuFriSat
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  

サイト内検索

月別アーカイブ

カテゴリー

新着コメント

新着トラックバック

organization

  • NPO法人しゃらく
  • いきがい.cc
  • 須磨観光協会
  • 須磨を西海岸化し隊
  • 観光ナビゲーションサイト 須磨海岸Navi
  • いたやにすと
  • オール須磨

link

mobile

  • qrcode

others

ad