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須磨の町名(10)わ〜ん

若木町(わかぎちょう)
桜木町とともに須磨寺若木ノ桜にちなんだ町名である。昭和44年6月に山陽電鉄東須磨駅の北一帯の町名改正をした際、町民達が話し合って、東須磨小学校校歌に若木という語が入っていることもあり、この町名にした。旧字名は東須磨村字寺畑ヶ、下り畑ヶ、口山畑、奥山畑、東小作、西小作、西細沢、東細沢、皿池東、皿池西、今池ノ下、長池ノ上、長池ノ西、堀ノ下、名倉などである。

若草町(わかくさちょう)
旧車村の北、須磨が台団地の町名。若々しい発展を祈って名づけられた。

若宮町(わかみやちょう)
旧字名・若宮による。明治初年に東須磨村の村民六軒がここに移住。以後、一帯に六軒家とよばれた。ここにあった若宮神社も東須磨村の鎮守・弓場八幡の分社だったので、若宮とよばれたのであろう。

須磨の町名(9)ら〜ろ

離宮西町(りきゅうにしまち)・離宮前町
旧武庫離宮からつけられた町名。離宮公園の西方にあるのが離宮西町で、旧字名は西須磨村字平林、中島上、中島下などである。離宮公園と旧神明道路を挟んで南正面に位置するのが離宮前町で、旧字名は西須磨村字上流川、中流川、下流川、上今池、中今池、下今池などである。いずれも昭和5年7月に設置されている。

竜が台(りゅうがだい)
造成前は垂水区名谷町奥畑の一部だったが、昭和50年須磨区に編入され、新しい町名が誕生した。さらに昭和53年には多井畑、妙法寺の一部を加えた。
町名は名谷町字龍華谷の旧字名をとった。

須磨の町名(8)や〜よ

弥栄台(やさかだい)
昭和60年垂水区名谷町の一部が西神流通業務団地として造営され、須磨区に編入された。町名の弥栄はいよいよ栄えるという意味で命名した。

行平町(ゆきひらちょう)
JR鷹取駅のすぐ西側の線路に沿って南側の一帯が行平町。町名は桓武天皇の曽孫、在原行平の名をとったものである。大正13年5月に設置された上手崎町(旧字名手崎の上など)、北手崎町(下二ノ井など)を改称し、昭和41年6月に設置された。

養老町(ようろうちょう)
板宿村の北。大正12年12月に町を設置する際、市立救護院(現・和光園)を設立する計画があり(大正13年開設)、それにちなんで養老とつけられたようである。
旧字名は板宿村字嫁ヶ家、東端、北ヶ市、川端、虹ヶ池で、昭和11年9月に西代村字中ノ庄池下、鬼ヶ平、轟キ谷を編入した。

横尾(よこお)
昭和54年、横尾山の北東部を削って造成した団地がある。もとは妙法寺の一部で、のちに多井畑の一部を編入した。町名は多井畑字横尾の字名と横尾山からとった。昭和52年市営地下鉄妙法寺駅が開設された。

須磨の町名(7)ま〜も

前池町(まえいけちょう)
大正12年12月につけられた、板宿村西部の溜池の名にちなむ町名。前池は、明治16年の地誌によると、東西九十七間(約176メートル)、南北四十七間(約85メートル)の溜池だったという。

松風町(まつかぜちょう)
在原行平ゆかりの町名である。行平が愛した姉妹の姉の方の名が松風であったのにちなむ。大正12年につけられた町名。

水野町(みずのちょう)
東須磨村北方の高尾山麓の字名により、昭和5年5月に設置された。天井川上流にあった水の豊かな斜地の意味。

緑ヶ丘(みどりがおか)
昭和53年、妙法寺の北端の丘陵と車の一部を造成して誕生した住宅地。町名は佳名をとった。

緑台(みどりだい)
西落合、垂水区名谷町の一部を開発した。全域が神戸総合運動公園である。
昭和60年に総合運動公園の緑にちなんで町名がつけられた。

南町(みなみまち)
西国街道の南側である。昭和5年5月、北側の東須磨北町とともに東須磨南町が設置され、昭和40年6月に南町と改称した際、もとの東須磨北町の一部が南町に移った。
旧字名は中ノ町、弓場町、才ノ池、椎ノ橋、射ノ下、井ノ上、天神目であった。

行幸町(みゆきちょう)
武庫離宮への天皇の行幸の道筋にあたるところからつけられた。町の西端のバス道が離宮道とよばれており、これを通ったのであろう。
旧字名は西須磨村字上池下、中池下、下池下、上一丁所、中一丁所、下一丁所などで、離宮前町等と同じく昭和5年に設置された。

明神町(みょうじんちょう)
このあたりにもと、天日霊女命を祀る鳴滝(なるたき)明神があった。同社は永正14年(1517年)の洪水で證誠神社の地に流されたことがあると伝えられる古社だが、明治40年に板宿八幡に合祀されて、町名だけにその名が残った。
旧字名は板宿村字奈義、土佐、真奈ヶ原、仏ヶ谷、胴長平、野獄など。明神町となったのは大正12年である。

妙法寺(みょうほうじ)
如意山妙法寺から取った名である。山あいに寺を中心とした小さい村が生まれた。江戸期には奥妙法寺村と口妙法寺村に分かれていたが、明治5年に合併して妙法寺村となった。明治22年には須磨村の大字となった。
現在も残る字名には毘沙門山、円満林(円満坊からの地名)、岩山(岩山坊)、堂の下、筆前、桜界地、界地、大門、地子田など寺にちなむ名が広い範囲にちらばっている。

村雨町(むらさめちょう)
在原行平が愛した姉妹の妹の名が村雨であったことにちなんでいる。

須磨の町名(6)は〜ほ

東町(ひがしまち)
旧東須磨村の村はずれで、田園地帯だった。旧字名に東寺田、西寺田、堀ノ内、名倉、長池ノ上、大池ノ西、今池の下があった。大正12年12月に下堀内町、大正13年5月に東寺田町、西寺田町、下寺田町、中寺田町、昭和5年5月に長池町が設置された。昭和42年6月の町名整理で、東町に統合された。

平田町(ひらたちょう)
現在の山陽電鉄板宿駅周辺。昔は広く平らな田がひろがっていた。
旧字名をそのまま大正12年12月に町名とした。

古川町(ふるかわちょう)
古川は昔からある川を指すのが一般だが、妙法寺川が大水で川筋を変え、もとあった川筋を古川と読んだのかもしれない。
旧字名は古川東、蔵ノ内、船平などで、大正13年5月に古川町が設置された。

宝田町(ほうでんちょう)
良田があったことからついた町名と思われる。
旧字名は板宿村字績路、堂ノ加市、新ノ内、笹ノ子、陣後、嫁ヶ家、姥ヶ家、大手村字東馬場などであった。

堀池町(ほりいけちょう)
旧東須磨村字堀ノ内、今池、名倉などが大正12年12月に下堀内町となった。また、昭和5年5月には、旧字名長池からとった長池町が設置された。
昭和42年6月に、両町から一字ずつとって、堀池町という一つの町名となった。

須磨の町名(5)な〜の

中島町(なかじまちょう)

天井川、妙法寺川、西国街道に囲まれた三角形の地域の町名で、ちょうど川の合流点で島のように見えることから中島という地名になった。
東須磨村字東中島、天神目、福原、籠池が、大正13年5月に上中島町、下中島町となり、昭和41年6月、両町が合併して中島町ができた。昭和41年に須磨区総合庁舎が新設され、区内の行政機関が集中する。

須磨の町名(4)た〜と

大黒町(だいこくちょう)
板宿村字黒土、黒土池、加古、二ノ井などと大手村字宮ノ東、宮ノ浦が大正12年12月に大黒町となった。その南方のえ戎田一帯を戎町(えびすちょう)として、戎・大黒の一対としてつけられた。

多井畑(たいのはた)・多井畑東町・多井畑南町
タイは傾斜地または山頂を意味する。山間の村で段々畑が多いことからきた名ではないかと思われる。
多井畑は田井畑、太井畑とも書かれた古い地名で『平家物語』にも「馬手へあすませゆく程に、としごろ人もかよはぬ田井の畑といふふる道をへて、一の谷の浪うちぎはへぞ出たりける」とある。
奈良時代まで須磨浦が荒磯で通行困難だったころ、山陽道は須磨からこの多井畑を通り、下畑・塩屋から播磨へと通じていた。このため、この地は西国から摂津(つまり畿内=首都圏)への入り口に当たっていたので、ここに須磨の関があったとも言われ、現に「関末(セキスエ)」という字名もある。
明治22年4月、須磨村の大字となり、現在に至る。多井畑東町は平成4年、多井畑南町は平成7年に、ともに多井畑の東、南に位置することからつけられた。

高尾台(たかおだい)
高尾山を造成して造った団地にもとの山名から名づけられた町名。旧字名は東須磨村字水野などで、昭和41年6月に水野町から分離して高尾台となった。

高倉台(たかくらだい)
高倉山を削って団地として開発したところである。この土はポートアイランドの埋め立てに使われた。タカクラは神が降臨、鎮座する山頂やきわだった樹木、巨岩などをさす。古代信仰からいえば高倉山はその場だったのであろう。
町の設置は昭和48年1月で、旧字名は西須磨村字立原谷、扇キ山、池ノ奥上、木戸ヶ谷、柳ヶ谷、小松ヶ内、荻原と下畑村字東砂山である。

高倉町(たかくらちょう)
背後の高倉山からとった町名で、昭和5年7月に設置された。旧字名は西須磨村字小屋ヶ谷、出ヶ平、東鎌谷、西鎌谷である。

鷹取町(たかとりちょう)
高取山にちなんだ名であるが、ここはむしろ浜に近く、旧字名にも鷹取はない。何故鷹取と呼ぶようになったかは不明。
東須磨村甘地、世間所、船平、前ノ子、蔵の内が旧字名である。大正13年5月に鷹取町が置かれ、その後今はなくなった下手崎町の一部を編入している。

千歳町(ちとせちょう)
大正9年12月、旧駒ヶ林村字端三郎、皆登、石仏、八反竿、杭田坪、上朝日、六反田、小仙町だったところをこの町名にした。昭和6年の区制では林田区に属したが、昭和20年に須磨区に移った。町名は佳名で、旧字とは関係がない。

千守町(ちもりちょう)
千守川による。高倉台の後方から流れ出すこの川は離宮公園の西に沿って南流し、同公園正門付近からは西南に向きを変えて海に流れ込んでいるが、路守川(ちもりがわ)、関守川とも記され、須磨の関の官吏あるいは須磨の海関の管理者津守(つもり)からきたと説かれてきた。昭和5年7月、新町名になった。
旧字名は西須磨村字稲荷の下、小屋ヶ谷、谷川、上沢、下沢など。

月見山町(つきみやまちょう)・月見山本町
在原行平ゆかりの町名で、行平が眺めたという配所の月にちなんでいる。東須磨村の旧字名に、月見口、月見ノ下があった。
この他の旧字名は出口、釈迦ノ前、西ノ口、西ノ町、手塚、寺前町、北野町、上横町、寺ノ西、今池ノ下などで、昭和5年5月の設置である。

寺田町(てらだちょう)
寺田町は大池の東の小さな町である。昔は西国街道沿いの水田地帯であった。寺の領田だったのか、寺田の字名があったが、附近に寺があった記録はない。タイラダ(平田)が音韻変化してテラダになった可能性もある。
旧字名は板宿村寺田、東寺田、古居で、大正12年12月に寺田町になった。

天神町(てんじんちょう)
ここに綱敷天満宮があることにちなむ。
旧字名は西須磨村天神上、上天神東、西天神下、下天神東、東北野下、下樋詰、上宿ノ道、上野、上町、仲町である。昭和5年7月に天神町となった。

道正台(どうしょうだい)
妙法寺の一部を造成してできた町名。妙法寺字道正川から町名がつけられた。

常盤町(ときわちょう)
千歳町と同様に旧字名にこだわらず、佳名をつけた。正しくは常磐の表記となるべきだが、俗用の常盤の方がとられた。大正9年12月に設置され、昭和6年に林田区常盤町となるが、昭和20年に須磨区に移った。
旧字名は駒ヶ林字野田池、小仙町、皆登、八反竿、上朝日と大手村字西馬場である。

飛松町(とびまつちょう)
飛松はまるで鳥が飛んでいるかのような枝ぶりの松のことで、全国に見られる地名である。『摂津名所図会』に板宿の北にありと記され、現在も板宿八幡神社境内に老松の大きな株が保存され、標石も立っている。大手町の勝福寺の北の丘陵が飛松岡と呼ばれており、街道からよく目立って見える大きな松だったのだろう。
ここには飛松の伝説があり、菅原道真が九州に流された時、都で愛していた松、梅、桜のうち松が道真を慕ってここに飛んできたという。桜は悲しんで枯れ、梅は九州まで飛んで香りを届けて飛梅と呼ばれた。菅公伝説の一つである。
旧字名は板宿村字亀ヶ池下、井出ノ上、平田、立山甲、新ヶ内、畑田、陣後、一ノ井、角戸、南所、黒土池、東ノ池、鶴ヶ池、大手東で、大正12年12月に現町名となった。

戸政町(とまさちょう)
西国街道の北側、妙法寺川と天井川の間にある。戸政は旧字名をとったものである。
旧字名は東須磨村字戸政、大池、西、大道ノ上、西寺田、川ノ下。設置は大正13年である。

友が丘(ともがおか)
多井畑の北を開いて作った北須磨団地の町名である。開発したのは労働金庫だが、住民みんな仲良く暮らしていこうという願いを込めてこの名をつけた。
旧字名は多井畑村字地獄谷、黒ヶ谷、池谷、渋人谷、菅谷、東龍華、西龍華、割谷、蟻ヶ越、掛峠、北上穂、東山、尾々、白岩、夫婦岩、入角、崩田、東向畑、油石、関末と名谷村菅ノ谷、龍華山などで、昭和44年11月に設置された。

須磨の町名(3)さ〜そ

桜木町(さくらぎちょう)
須磨寺の若木(わかぎ)の桜による町名。若木の桜とは幹は枯れてしまっても、枝は若木のようである桜のことである。『源氏物語』では、光源氏が植えたと記し、また弁慶は桜のわきに「伐一枝者可剪一指(この木の枝を一本折る者は、指を一本折られるべし)」の高札を立てたという。
場所は離宮公園の西、須磨寺町の東隣にあり、昭和5年7月に旧西須磨村字東北野上、東北野中、東北野下、下樋詰、上町が桜木町となった。

潮見台町(しおみだいちょう)
山陽電鉄須磨駅一の谷との間に広がる丘陵地の町名。ここは神戸でも初期の新興住宅団地として開発されたところで、海の見える台地であることからこの名前がついた。町内には藤田男爵の別邸や知事官舎もかつてあった。景勝地を望む高級住宅地だったのである。昭和5年7月に設置された。
旧字名は西須磨村字八本松西、八本松東、西野、南平、西平、外平、西町、中起、四ツ辻などである。八本松は、むかし西須磨村の西のはずれの街道沿いに立派な松が八本あったところからついた名前である。

清水台(しみずだい)
旧妙法寺村の北部を造成して平成3年にできた町名。妙法寺字清水谷より町名がつけられた。

白川(しらかわ)・白川台・東白川台
明石川の支流伊川の水源の川が白川。約三千年前の古神戸湖岸に堆積した凝灰石を地盤とする一帯は、雨が降ると白濁した川となったのでこの名前がついた。周囲の山は古くから楊桃(やまもも)の産地で、平安時代には京の宮中に献上していたと伝えられる。『藤田文書』には正和四年(1315年)にすでに白河と見え、応永三年(1396年)にも白河畑と見える。
「白川台」は白川峠の西の山一帯を造成した団地である。旧字名は白川村字城ヶ岡、城ヶ谷、堂ノ前、落合山太平ノ口、同鳩ヶ釜、同休間ヶ谷、冷松、朶尾坂、向井坂、千原などである。
「東白川台」は伊川の水源白川と妙法寺川の分水嶺、白川峠の東に造成された住宅地である。昭和58年に設置された。

神撫町(じんぶちょう)
妙法寺川の東岸、高取山のふもとに位置する。神撫は高取山の別名を音読みした町名である。元禄のころの地誌『摂陽群談』に「神撫山 同群板宿村の後にあり。一名鷹取山と号す」とある。
高取山は布引の砂山、長田の天神山と並ぶ神祭りの山であった。これを「神奈備(カムナビ)」と呼んだ。カムが神、ナは連帯助詞、ビは火であろう。神奈備はまた、カムナデとも呼ばれた。デは出、つまり神の来る所という意味である。これが神撫と表記されるようになった。妙法寺の正応二年(1289年)の文書に「神撫」の名が見える。神功皇后が遠征の帰途、この山に登って石に座り岩を撫でたら、たちまち高い山になったことから「神撫」の名が出たという伝説もあるが、後から地名にこじつけたものかと思われる。
旧字名は板宿村字神撫山、土佐、広畑である。大正12年12月に神撫町となった。

菅の台(すがのだい)
旧名谷町字菅ノ谷の小字名からとった。はじめ垂水区名谷町奥畑の一部だったが、須磨ニュータウンの造成によって昭和50年須磨区の新しい町名となった。

須磨浦通(すまうらどおり)
須磨水族園の西から一の谷にかけての、国道二号線および山陽電鉄より南の一帯の町名で、ほぼ東西方向に細長い地域である。神戸唯一の須磨海水浴場、旧和田岬灯台が町内に含まれる。
「すまの浦に焼くしほかまの煙こそ春にしられぬ霞なりけれ」(俊頼『詞華和歌集』)ほかの歌で知られる須磨の浦からとり、海岸沿いの地域に名づけた。
旧字名は西須磨村字新田町、東町、西町、下宿ノ道、下一丁所、西天神下、砂浜、辰浜、下浜田、川端、下谷川などで、昭和5年7月に設置された。

須磨寺町(すまでらちょう)
須磨寺、つまり上野山福祥寺周辺についた町名。明治24年ごろ寺の南に千本の桜が植えられ、須磨寺大池(堂谷池)とともに“新吉野”といわれる桜の名所だった。昭和5年7月、須磨本町や須磨浦通と同時に町が置かれた。旧字名は西須磨村字須磨寺門前、堂ノ谷、大聖山、上野、千森町、上マセ垣、中マセ垣、下マセ垣、中マセ垣、上樋詰、下樋詰であった。マセ垣は藩架(ませがき)のことで、須磨の関の一画を示す垣だといわれる。

須磨本町(すまほんまち)・東須磨・西須磨
東須磨、西須磨はともに江戸期からあった村である。明治22年4月にともに須磨村の大字となった。現在も大字として残っているが、市街地部分は大正9年から昭和6年にかけて町名整理が済み、現在残っているのは山間の地域である。離宮公園神戸女子大学が大字東須磨に、山陽電鉄須磨浦山上遊園など鉢伏山の一帯は大字西須磨に含まれる。
旧西須磨の中心だったあたりは現在は須磨本町になっている。JR須磨駅の東、山陽電鉄国道二号線との間である。旧字名は西須磨村字上宿ノ道、下宿ノ道、仲町、千森町、下マセ垣、上浜田、下浜田で、昭和5年7月に須磨本町となっている。

関守町(せきもりちょう)
関守は関をつかさどる役人のことで、須磨の関にちなむ。大宝令(701年)に規定された摂津ノ関は、奈良以後消えてしまうが、平安末期に源兼昌がその関を懐かしんで作った、「淡路島かよふ千鳥の鳴く声に幾夜寝覚めぬ須磨の関守」という歌で一躍有名になった。町内には関守稲荷神社があり、ここがその旧跡とされる。
旧字名は西須磨村字西野、小神、四ツ辻北などで、昭和5年7月に現町名となった。

禅昌寺町(ぜんしょうじちょう)
高取西麓にある神撫山禅昌寺による町名。禅昌寺はモミジ寺、スズメのお宿でよく知られている。
現町名は昭和4年5月につけられた。旧字名は板宿村字神撫山、広畑、垣ノ内、茶園場、立会山、高取山、西代村字鬼ヶ平。

外浜町(そとはまちょう)
妙法寺川の河口付近の町名。昔は川尻が海に突き出ており、川崎の字名があった。両側は広大な砂浜になっており、美しい白砂青松の海岸をなしていた。
大正13年5月に東須磨村字外浜、川崎、小寺、東畑地、西畑地が現町名となった。

須磨の町名(2)か〜こ

神の谷(かみのたに)
もとは垂水区名谷町奥畑の一部だったが、ニュータウン開発により須磨区に編入、昭和52年にこの町名になった。町名は旧字名神の谷からつけられた。

上細沢町(かみほそざわちょう)
證誠神社の西を流れて妙法寺川に入る支流・細沢谷川にちなむ町名。この川は、古くは魔頭谷川(まとうだにがわ)と呼ばれていた。大正13年5月、旧字西細沢、寺ヶ畑、兼広が上細沢町に、西細沢、椎木谷、東小作、下り畑ヶが下細沢町に、昭和5年5月に東細沢、寺畑ヶが東細沢町になったが、その後「下」と「東」とが若木町になり、「上」だけが細沢の名を残した。

川上町(かわかみちょう)
板宿から見て妙法寺川の上流という意味の町名。大正12年12月に旧板宿村字北ヶ市、土佐、川ノ平が川上町となった。

菊池町(きくいけちょう)
旧板宿村字亀ヶ池が大正12年12月に菊池町となった。

北町(きたまち)
昔の西国街道の北側で、この辺りが旧東須磨村の中心部だった。街並みが形成されており、辰巳町、川西町、北野町、須磨川町、幸町、上横町、大道町、寺前町などの名がついていたという。昭和5年5月、街道を挟んで南側の南町と同時に東須磨北町となり、昭和40年6月、北町と改称された。

衣掛町(きぬがけちょう)
在原行平が帰京する際、愛した二人の娘のために邸の松の枝にかたみとして冠と衣を掛けて去ったという伝説にちなんで、狩衣を掛けた松のことを衣掛松と読んだことから。大正13年5月、稲葉町、松風町、村雨町とともに設置された。四町の旧字名は東須磨村字釈迦ノ前、法花、惣ヶ内、射場ノ下、鶴免、二重堤、坊敷、仲ノ前などである。

車(くるま)
車村は「藤田文書」天文13年(1544年)によると、戦国期からその名前が見える。また鎌倉期に車造という地名が見える。由来に諸説あり、水車が多く設けられていたとも、栗の多い地(くり、ま)によるものとも言われているが定かではない。明治22年4月、車村は須磨村の大字となり、現在も続いている。

小寺町(こでらちょう)
小寺町はJR鷹取駅から南、海に近いあたりだが、昔の地図で見ると水田と松林と広い砂浜があるだけだった。どんな寺があったかはわかっていない。旧字名は東須磨村小寺、東畑地、西畑地、前ノ子、古川東で、大正13年5月に現町名となった。

権現町(ごんげんちょう)
大手の権現さんと呼ばれる、町内にある證誠神社にちなむ。同社は江戸時代から大手・板宿・東須磨・野田・駒ヶ林、五ヶ村の総鎮守であった。社伝では11世紀に勝福寺開山の証楽上人が勝福寺の鎮守として紀州熊野権現を勧請されたものだと伝えられているが、実際はこの北方の松岡城を拠点とした武士勢力が戦勝を祈って中世に熊野から招いた武神である。大正12年12月、今の山陽電車の南側一帯が権現町となった。旧字名は大手村字宮ノ東、宮ノ浦、宮ノ西、子守前、竹ノ花、三ノ井である。

須磨の町名(1)あ〜お

須磨の町名の由来を調べてみました。

参考資料:『須磨の歴史散歩』(改訂版・平成10年発行)制作:須磨区のまちづくり推進課
       『新 神戸の町名』(1996年発行)編集:神戸史学会
       須磨観光協会HP「なるほど!町名百科事典
参考資料の数がちょっと少ないですが、ご勘弁を。
これらから抜粋する形で今回はまず五十音順の「あ」から「お」までを。

青葉町(あおばちょう)
一の谷の合戦熊谷次郎直実に討たれて命を落とした美少年、平敦盛が持っていたという笛「青葉の笛」からとった町名。旧東須磨村字掛田、中田、手崎ノ上、太田、平田、中屋敷、二ノ井、ヘラダ、甘地、世間所、船平、蔵ノ内だったところが、大正十三年五月に上、下手崎町となり、昭和41年6月に両町のそれぞれ一部が青葉町になった。JR鷹取駅の南西に位置する。須磨寺、一の谷ともあまり縁のない場所である。

磯馴町(いそなれちょう)
須磨に吹く強い陸風により、松の枝が東南に向き、美しい枝ぶりを見せていた。それが古来「磯馴松(そなれまつ)」と呼ばれ、「須磨の浦渚にたてる磯馴松しづえは波のうたぬ日ぞなき」(俊頼『続後拾遺和歌集』)など多くの歌にも歌われてきた。在原行平が都に帰ったとき、松の枝が彼を慕って都の方へなびいたという伝説も残っているという。
大正十三年五月、旧東須磨村字荒堀、不毛、松ノ下、替地、仲ノ前、法花、坊敷、山ヶ坪、平松、堂田尻が磯馴町となった。
江戸時代には須磨名物に「磯馴味噌(そなれみそ)」があった。

板宿町(いたやどちょう)
‖膾防椶忘諺される菅原道真のために里人が板囲いの宿を建ててもてなしたことに因む貞応元年(1222年)の長田神社文書に見られる「板井戸」村からきている川上町にあった鳴滝明神が1517年の水害で流された時、ここに仮の板屋をつくったのを「イタヤドリ」と呼んだことによるこ稿擦錣の水呑場「板井戸」による高取山麓のイタドリ原からきた
以上の諸説あるようだが ↓△有力のようである。
旧字名は板宿村字河原、前、辺良町、坂千代、東所、得能、上野山、西所、馬草谷、小屋ヶ谷。大正十二年十二月に板宿町となった。板宿八幡神社を中心とする一帯である。

一の谷町(いちのたにちょう)
鉢伏山南麓は古くは山が海に迫って、出入りの激しい通行困難な荒磯を形成していた。これが大化二年(646年)に畿内の西端として赤石櫛淵(あかしのくしぶち)と定められたと日本書紀にある。おそらくは平安時代末までにはこの入江に砂が堆積して谷となり、岬は尾根となっていた。谷は東から一の谷、二の谷、三の谷と呼ばれ、西須磨村の字名として一の谷東、一の谷中東上、一の谷中、一の谷西、二の谷西、二の谷上、二の谷下、三の谷草刈場、三の谷西平、三の谷があり、これらに堀切、宗兵衛新田を加えて一の谷町となったのが昭和五年7月である。
交通の要地そして難所でもあり、中世には海賊も出没したという。

稲葉町(いなばちょう)
東須磨村の背山にあった字名稲葉山による。須磨にわび住まいした在原行平がここで秋の月を楽しんだことから一名を月見山とも呼ぶ。この時、行平が、「立ち分かれ稲葉の山の峰におふる松としきかば今かへりこん」と歌ったと伝えられている。『古今集』にもあることの歌は小倉百人一首にも選ばれてよく知られているが、実は因幡(いなば)の国で歌ったものである。
町名はこの歌からとっている。大正十三年に命名された。

永楽町(えいらくちょう)
禅昌寺と養老町の間にある小さな町で、山間を切り開いた所である。昭和11年に隣の養老町とともに、縁起のいい名前ということでつけられたと言われている。旧字名は西代村字中ノ庄池下、鬼ヶ平、板宿村土佐などである。鬼ヶ平は勝福寺の追儺縁起にある大鬼が出たというところである。

戎町(えびすちょう)
旧板宿村戎田、下平田、庄の池西、笹の子、績路、黒土、常ノ加市などと西代村字トサキが大正十二年三月にこの町名となった。

大池町(おおいけちょう)
旧東須磨村にあった最大のため池の名、大池にちなむ。大正十二年十二月に設置された。

大田町(おおたちょう)
西国街道のすぐ北側で、大正十二年十二月に旧字名をそのまま町名とし、設置された。

大手町(おおてちょう)
勝福寺とその背山にあった南北朝時代の松岡城の正面に成立した村・大手の名による。赤松範資の築いたこの城に逃げ込んだ足利尊氏がここで観応二年(1351年)に切腹を決意したと『太平記』にある。
明治二十二年、須磨村の大字となり、大正十二年十二月に現町名が生まれた。旧字名は大手村字大手前、大手後、大手東、観音林、寺ノ東、寺ノ西、閑田村、鐘鋳場、北ノ所、中ノ所、西ノ所、東ノ所、子守前、竹ノ花、上庄条、下庄条、三ノ井、板宿村字加古、鶴ヶ池、坂千代などである。

奥山畑町(おくやまはたちょう)
旧東須磨村に字奥山畑、口山畑があり、大正十三年五月に山畑町ができたのに続いて、昭和五年五月に奥山畑町が生まれた。山畑町はその後若木町に吸収され、山畑の名はここだけが残している。ちょうど高尾台団地の南に位置する。

落合(おちあい)・北落合・南落合・東落合・西落合・中落合
落合団地の開発によって、昭和52年に新しい町名がつけられた。町名はもと名谷町奥畑字落合、車字落合山、妙法寺字落合山と字落合中の小字および区域にある「落合山」からとった。落合は川や谷の合流点で、ここでは妙法寺の一水源の谷と、垂水を流れる福田川の谷、つまり名谷の落ち合うところという意味である。東落合はもとは車、妙法寺、白川の一部だった。西落合はもとは名谷、南落合はもとは妙法寺、多井畑、北落合はもとは白川、名谷の一部であった。

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  • NPO法人しゃらく しゃらく旅倶楽部担当
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