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須磨の歴史(2) 古代

各地の豪族を従えて生まれた大和政権大化の改新律令の制定などを経て強力な中央集権国家を築いていった。

律令制のもとで、この地域は摂津国雄伴(おとも)郡になり、それが平安初期には八部(やたべ)郡に改称された。郡内には、生田、神戸、宇治、八部、長田の五郷があり、当時の須磨は長田郷の一部だったとされる。

この八部郡は現在の中央区の西部(旧生田区域)、兵庫区長田区の各全域、須磨区のほぼ全域、北区の一部(鈴蘭台周辺)にあたる。
ちなみに神戸を中心とした他の地域を調べてみると・・・
摂津国菟原(うばら)郡・・・現在の芦屋市東灘区灘区中央区東部
摂津国有馬郡・・・現在の三田市全域・西宮市北部(山口町・塩瀬町)・神戸市北区の東部(有馬・有野・道場・八多・大沢の各町)
播磨国明石郡・・・現在の明石市神戸市西区垂水区神戸市須磨区の一部
播磨国美嚢郡(みのうぐん)・・・現在の三木市神戸市北区淡河町

須磨の地名が有名になったのは、天武天皇(631?〜86)の時代に置かれたと言われる「須磨の関」からである。当時は須磨海岸が大変狭く潮が満ちると人馬が通れない場所だったため、都へ出入りする人々の動きや物資の流れを把握しやすく、そういった地理的条件を背景に交通・軍事上の要衝として関所が設置されたと見られる。
大同年間(806〜10)には駅家(うまや)も置かれていた。その場所は今の天神町5丁目あたりだと言われている。

当初須磨は製塩産地として都で広く知られていたようだ。『万葉集』に山部赤人が敏馬浦(みぬめのうら・現在の神戸市灘区を流れる都賀川が海に注ぐあたりの地域)を通った際に詠んだ歌や大網公人主という人物が宴席で詠んだ『須磨の海人の塩焼き』という歌も残っている。

その後平安時代に入ると、須磨は貴族の隠棲の地となった。在原業平の兄、行平(818〜93)など多くの歌人に取り上げられているが、ほとんどがわびしさを詠んだ歌だと言われている。

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