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須磨の歴史(3) 中世

いよいよ須磨が歴史の表舞台に登場してきます。

十二世紀後半、絶大な権力を握っていた平清盛(1118〜1181)は1180年6月に福原(現兵庫区辺り)遷都を敢行するが、反平氏勢力の挙兵などで11月にやむなく都を返した。翌年清盛が死に、源義仲(1154〜1184)が京都に進撃すると平家は西国へ都落ちした。
 しかしその後都入りした義仲が貴族社会と対立し孤立を深めると、後白河法皇(1127〜1192)が鎌倉の源頼朝(1147〜1199)に義仲追討を命じた。そこで頼朝は源義経(1159〜1189)と源範頼(1153?〜1193)を義仲討伐のため京に上らせた。一方平家方は、再び都を奪おうと西国を発し、兵庫に上陸して大手の砦を生田の森(現中央区)に、搦手(からめて)の砦を一の谷(現須磨区)に設け、神戸を拠点と定めた。
 そして京で義仲の討伐を果たした義経たちはその余勢をかって平家軍に押し寄せる。範頼は京から山陽道を通って直接生田へ、義経は丹波を迂回して加古川筋を下り、播磨灘の海沿いに西から一の谷をつくことになった。
 こうしてついに1184年2月7日、平家方10万人、源氏方6万人と言われる大合戦の火ぶたが切って落とされた。これがかの有名な一の谷の合戦である。この戦いで平家は敗れ去り、源氏の時代へと移行していくことになる。
 鎌倉時代に入ると区域の開発が進み、『平家物語』板屋ど須磨が、また1222年の長田神社文書田井畑・板井戸・須馬が、1315年の白川村文書白河・車造など、区内の旧村名が記録に見え始める。また、鎌倉時代から戦国時代にかけて自治組織としての「須磨村」が存在していたと思われる文書も残っているらしい。
南北朝時代には北朝の佐々木氏足利時代の初期には赤松氏室町時代には細川氏と、所領はめまぐるしく変わっていった。その間にも須磨はしばしば戦乱に巻き込まれ、1578年には花熊城を攻める織田信長(1534〜1582)の軍勢によって火をかけられたと須磨寺の古記録などに伝えられている。

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