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須磨の歴史(4) 近世

やがて天下を統一した豊臣秀吉(1536/1537〜1598)は、検地や刀狩を行い、近世封建社会の基礎を固めていった。

1591年に行われた検地では
多井畑村、池田村・・・備中の蒔田権介の所領
西代村・・・・・・・・杉原伯耆(ほうき)の所領
西須磨村、東須磨村、板宿村、大手村、妙法寺村、車村、白川村・・・・・・・・・・豊臣秀吉の直轄地村上孫左衛門の預かり地)

となっていたようだ。

1615年、大阪の陣で豊臣氏が滅亡すると、須磨はほとんどが徳川家に属したが、多井畑村だけは蒔田家領であった。

1618年、戸田氏鉄(うじかね・1576〜1655)尼崎城主となったと同時に板宿村・大手村・東須磨村、西須磨村尼崎藩領とされた。

1635年、青山幸成(1586〜1643)が尼崎に入り、以後4代は青山氏の支配を受けた。

1702年、西代村天領となり、多井畑・池田村蒔田氏が伝領、その他の村青山氏の所領となる。

1711年、青山氏にかわって松平氏尼崎藩主となった。この時、幕府は西摂の尼崎藩領の多くを収公して天領とした。(多井畑を除く須磨地域もこのとき天領となった。

幕末の記録では、多井畑村が備中浅尾藩の蒔田家領であるほかは全村天領として大坂谷町代官の支配下に置かれている。


ここまで調べての率直な疑問。江戸時代中期には須磨区のほとんどが天領となったのに、多井畑だけは戦国末期からずっと蒔田家領であり続けたのは何故なんでしょう?どなたかご存知の方いたら教えてください。

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豊臣秀吉

豊臣秀吉秀吉は猿と信長に言われて可愛がってもらっていた。+今川吉本は、ライバル秀吉ファンクラブ設立希望いい人>普通は小さい頃に1本を切除するが、秀吉は6本指を生涯通したとのことである。とのことですが、当時でも切除する場合が多かったので

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